大隣寺の変遷


  • 巨邦山大隣寺は、二本松藩十万七百石の藩主、丹羽家歴代の菩提寺として建立された寺院である。
    大隣寺の寺号は、初代丹羽長秀公の法名「総光寺殿大隣宗徳大居士」の大隣に由来する。
    「徳大いに隣あり」は、徳ある者は多くの協力者があるという意味である。
    また、寺紋として丹羽家の家紋「違い棒(直違紋/すじかいもん)」を用いている。
  • 寛永4年(1627)2月、二代長重公は、棚倉(福島県東白川郡棚倉町)より、白川(福島県白河市)に国替えとなって入部された。同年の夏、初代長秀公(丹羽家初の大名)の菩提を弔うため、越前総光寺(福井市)より、融法全祝大和尚を招いて、白川の円明寺跡に大隣寺を建立した。
  • 寛永20年(1643)7月、三代光重公が、白川より、二本松に再び国替えとなり、大隣寺もまた二本松に移され、霞が城の東松渓山道光寺跡(二本松市根崎遍照尊寺の地)に建立された。
  • 承応2年(1553)、方角等の関係から城の南に位置する向原(二本松市茶園)に移築された。この地は、久保町坂(本町)の大手門があったところの正面にあたり、菩提寺を見下ろす格好になるといわれた。
  • 寛文7年(1667)向原の地より、城の西に当たる、現在地に再び移築されたのである。時に光重公は、釈迦如来像を新造させ、大隣寺の本尊として安置するとともに、寺領を改め山林を寄進された。
  • 寛文9年(1669)五世牧之黄牛大和尚代に、山門を建立し、大隣寺の伽藍が整ったのである。その後、伽藍は再三にわたり改築改修され、特に文化8年(1811)には全面改修が行われ、現存する本堂はこの時期のものである。
  • 建立依頼、火災等の災害にも遭うことなく戊辰の動乱を迎えた。戊辰の役後は、藩主の御謹慎所に当てられ、さらに二本松藩庁の仮事務所にも使用された。
  • しかし、廃藩置県により、寺院の維持管理が困難となり、山門・鐘楼・僧堂・庫裡・回廊を売却し資金に当てた。当時を偲ぶ建築物は、本堂と経蔵等である。
  • 今現在境内には、復興された鐘楼、二本松藩主丹羽公歴代の霊廟や、御霊屋、戊辰の役で幼い命を散らした二本松少年隊の墓所、戊辰戦役殉難者群霊塔がある。また、西国三十三観音を祭った霊場観音山や、延命子安地蔵尊がある。

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