二本松少年隊

大隣寺境内には、戊辰戦争、戦死者群霊塔、二本松少年隊供養塔があります。


少年隊の命名

  • 戊辰戦争の折、同じ福島県である会津藩には少年16.7歳からなる「白虎隊」は正式に編成されていたが、二本松においては、急きょ出陣することになったため戦争当時は名などはなかったのである。
  • 1917年(大正6)9月15日、戊辰戦後50年にあたり戦没者法要が大隣寺で行われた。
    それまでは「賊軍」の汚名を着せられ、二本松藩士たちはひたすら沈黙を通し続けてきたのであった。
  • この時、戊辰戦争に木村銃太郎門下生として14歳で出陣した水野好之氏は、「二本松戊辰少年隊記」とした、当時の出陣者名、激戦の様子などを記したものを作成し配布した。
    この表題を基に戦後50年の後に、二本松少年隊」と命名されたのである。


二本松藩独特の入れ年制度

  • 二本松領に責めて来た時に、二本松城は空虚同然であったため、少年たち、老人までもが出陣するととなったのである。
  • 入れ年とは、二本松藩に独特の制度で、成人を20歳とするのだが、18歳で成人の届けをすれば兵籍を命ずる習慣があった。つまり2歳サバを読むことになる。
    藩は兵力不足のため、17歳までの出陣を許可した。
    このことを利用して、15歳の出陣となったわけである。
  • しかし、少年たちの出陣嘆願は日増しに多くなり、砲術指南木村銃太郎に門下生たちは、何度も出陣許可の執り成しを嘆願したという。
    本宮を占拠されたことを受け15歳間でを許可、つまり入れ年にすると13歳までになる。
    2歳の差を黙認するという習慣が少年たちの悲劇を生むことになるのである。
  • 少年隊62人中、数え年で、12歳1人、13歳14人、14歳19人、15歳10人、16歳12人、17歳6人、木村門下生16人を含む25人が隊長木村銃太郎、副隊長二階堂衛守の指揮のもと大壇口を守り、他の37人はそれぞれの部隊に配属され、7月29日を迎えたのである。
  • 木村銃太郎肖像(二本松市所蔵)、二本松市ゆるキャラ銃太郎くん
     

戦いに備えて少年たちは

  • 岡山篤次郎(13歳)
    出陣の際、母に他音で、戎衣をはじめ、手ぬぐいにいたるまで「二本松藩士岡山篤次郎十三歳」と書いてもらう。母が屍を探す時にわかりやすいように。字が下手だと敵に笑われる。との理由からだと伝えられている。
  • 久保豊三郎(12歳)
    母に何度も出陣を願ったものの、年が満たないため許されなかった。それでもねだるように出陣を求めたため、母は困り果で幼いから、間近に砲声でも聞いたら恐ろしくなって帰ってくるだろう 。と考え、下男と一緒に行くことを条件に許した。豊三郎は下男の手を引くようにして、大壇口に向って行ったといいう。兄の鉄次郎も大壇口に出陣している。
  • 成田才次郎(14歳)
    父から「敵を見たら斬ってはならぬ。突け。ただ一筋に突け、わかったか。わかったら行け、突くのだぞ。」と、教え諭され出陣したという。この突きは、初代藩主・丹羽光重公以来の二本松藩伝統の剣法だという。

大壇口の戦い

  • 7月29日の霧深い朝であった。大壇□では敵の来襲必至の情報で、緊張して警戒に当っていた。大壇口守備隊は、丹羽右近を隊長とする三個小隊で、木村銃太郎の率いる少年隊23名はその配下となった。
  • 8時頃、大壇口前方の尼子台に陣していた二本松隊に対して西軍の砲撃が開始された。
    西軍は組み易しと見たのか、隊列を組んだままに少年たちの眼下に姿を現わした。
  • 「若先生(銃太郎)、まだですか?」少年たちの撃ちたくて気がはやるのを、「命令を待て、もっと敵を引き付けてからだ」と言い聞かせる。
    大砲には、木村門下第一の砲手・岡山篤次郎と成田虎治の二人が付き、その傍には銃太郎が毅然として立ち、他の少年たちは陣立てに身をひそめ、銃を構えて敵を待ち構えた。
  • 息詰まるような時が刻々と流れ、「撃て!」銃太郎の命令が下り、篤次郎と虎治の精魂込めた速撃弾は3発とも敵の頭上で爆発、敵は慌てて散り、左右の山林に身を隠し、大砲と銃を雨あられと撃ってきました。一方、民家にひそんだ敵を砲撃したところ見事に命中し、民家51軒を貫いたといいます。この砲撃の確実さには西軍も驚いたほどで、一弾一弾よく目標に的中したと後に西軍の隊将が語っている。

  • しかし、多勢に無勢、新式銃を使い、統制ある巧みな近代戦法の西軍は包囲態勢を整え、徐々に少年たちを攻め立てて来る。
    「“若先生、早之助かやられました。」遠くで叫ぶ声がした。少年隊最初の戦死者である
    奥田午之助でした。少年たちは初めて戦争という実体験を、まじかに見せつけられたのであった。
    仲間の命を奪われた少年たちは、弔い戦と奮起し、激しく向い撃ちあった。
  • こうした中、ついに隊長が敵弾で左腕を撃ち抜かれ重傷を負い、「もはやこれまで」と退却を決断し、自ら集合の太鼓を打ち鳴らす。
    敵は目前に迫り危険な状況となった時、追い討ちをかけるように敵弾に腰を打ち抜かれ、その場に倒れてしまう。「この重傷では到底お城には帰れぬ。我が首を取れ。」と副隊長に願うのであった。
  • 少年たちは銃太郎を励まし一緒に退却するよう懇願しましたが、「押し問答する時ではない。早く切れ。」と促し、副隊長は心を決め銃太郎の首を切り落とした。その瞬間、少年たちは一斉に号泣したという。
  • そして、少年たちは副隊長の指示に従い、泣きながらも銃太郎の屍を急いで埋め、首を下げ持ち、引き上げることになった。
  • 隊長・副隊長の指揮のもと、わずか25人の少年で抗戦した大壇口の戦いは幕を閉じたのである。

  • 二本松少年隊使用の火縄銃と百匁砲(大隣寺蔵)
  • 戊辰戦争の戦死群霊塔及び、戦死名姓碑は明治2年に建立されている
  • 少年隊供養塔



○大壇口古戦場址

  • アクセス  二本松インターより車で2分
  • 二勇士碑と木村銃太郎戦死の地碑




○二本松少年隊顕彰祭・墓前祭

日 時  7月28日  午後5時~6時
   場 所  霞ヶ城公園箕輪門 二本松少年隊群像前


 二本松少年隊顕彰祭は霞ヶ城公園の箕輪門下の『千人溜り』と呼ばれる広場は、戊辰の役の折、にここから出陣したといわれているところである。
霞ヶ城の箕輪門の石垣と二本松少年隊の群像を背に詩吟や剣舞が披露される。








○二本松少年隊墓前祭

日 時  7月29日 午前10時~
場 所  大隣寺少年隊墓所

辰戦争命日の7月29日、二本松少年隊の墓所の大隣寺において墓前祭が行われる。
旧二本松藩十八代当主の丹羽長總氏をはじめ、少年隊顕彰会加盟団体の方々、少年隊の子孫の方々、藩士の会睦会、家族連れの市民の方々が訪れ、少年隊の慰霊を弔う。




大隣寺