大隣寺境内には、戊辰戦争で戦った二本松少年隊の墓所があります。
二本松少年隊群像 二本松城箕輪門前(1996年設置)制作:橋本堅太郎氏
1868年(慶応4)戊辰の年に始まり,維新政府軍と旧幕府側との間に一年三ヶ月か月余にわたって戦われた内戦。
1月の鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は,4月江戸城を接収,上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅,奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に10月には帰順させた。翌年5月,最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ,内戦は終結し,明治国家確立への途が開かれた。
二本松戦争の流れ
1868年閏4月19日、会津藩救済の嘆願を拒み続けた明治新政府軍参謀の世良修蔵が仙台藩らによって暗殺されると、翌閏4月20日に徳川旧幕府側の会津藩、純義隊、新選組らは白河城を占拠した。
情勢の変化を受け、東北の諸藩25藩は白石会盟に参加し、閏4月23日には仙台藩と米沢藩を盟主とする奥羽越列藩同盟を結成、東北戦争が開始される。
十万700石を領する二本松藩は会津領の猪苗代盆地へ通じる奥羽街道の要に位置していた。
周囲の小藩である守山藩(2万石)、三春藩(5万石)に比べて石高が高く、また藩主の丹羽氏は丹羽長秀に連なる名門のために国主格待遇を受け、白河城の城郭を預かっている。
戊辰戦争時の藩主は長国公だったが、病に伏しがちで藩政を差配していたのは家老の丹羽一学氏だった。
藩士の気質としては、会津藩同様に漢学が盛んで、忠君愛国の教育が家臣団に深く根づいていた。しかし、軍制、兵装、戦術の洋化の動きは鈍く、結果として旧態依然の軍備で戊辰戦争に参加することになる
二本松藩が管理していた白河城は、4月9日の段階で新政府軍参謀の世良修蔵の命令で新政府軍へ管理が移る。二本松藩兵は一部を残して退去し、会津討伐のための仙台藩、棚倉藩、三春藩らの兵が入っていた。
だが、4月19日に世良修蔵が仙台藩に処刑されると、4月20日未明に二本松藩を除く各藩の兵士は白河城を退去し、代わって会津藩兵が白河城に入った。4月23日には家老丹羽一学の主導の元、列藩同盟に参加する。白河城には会津藩、仙台藩、棚倉藩の2,300名の軍勢が入ることになり、二本松藩兵は自領へと軍を引き上げた。
しかし、その大軍にも関わらず5月1日、新政府軍の攻撃により白河城が再び新政府側に戻った。会津藩はその奪還のため、二本松藩に増援を求める。二本松藩はこれに応え、8小隊と砲隊からなる主力を白河口に送った。
しかし、白河城への攻撃は失敗に終わり、二本松藩兵もしばらくの間、白河周辺に釘付けになる。
白河と棚倉を抑え、北上の体勢の整った新政府軍は平潟方面軍の磐城平藩の攻略し、三春方向から攻める計画をする。
この敗戦と平潟に上陸した新政府軍の存在がきっかけとなり、仙台藩兵、二本松藩兵は白河城と棚倉城の攻略を断念して郡山へと撤退を始める。
7月24日、新政府軍の板垣支隊は棚倉城から北上を開始する。三春藩では、旧幕府軍には援軍を求めるなど戦意高揚を装って仙台藩、二本松藩からの信用を得る一方、板垣退助に恭順の使者を送っていた。
仙台藩が兵力を郡山に引き上げたこともあり、三春藩の離反を止める要因はなくなった。
三春藩は藩主の秋田映季自らが城外に出迎えて新政府軍に帰順する。
この帰順は旧幕府軍にとってみれば直前まで信用させた上での手のひら返しであり、「三春狐にだまされた」と三春の変節を詰る歌が現在でも残るほどの禍根を残した。
三春からの進路である糠沢、本宮が新政府軍の手に落ちたことによって、北の二本松城と南の郡山の中間点を抑えられ、郡山の旧幕府軍は孤立する形となった。
7月29日午前6時、板垣退助率いる主力部隊と、阿武隈川を挟んで東に位置する小浜から出撃する部隊は二本松城に向かった。
二本松藩は軍師小川平助の指揮の元、防戦の支度を始めていた。二本松城は丘陵と阿武隈川という天然の地形を利用した山城で、高地に二本松の12小隊が展開し、後方には仙台藩3小隊、会津藩5小隊が後詰として待機していた。
だが、二本松藩には根本的に兵力が不足していた。そのため、老年隊、農民兵を含む予備兵に加えて少年からなる二本松少年隊までもが動員された。
7月29日午前6時、板垣退助率いる主力部隊と、阿武隈川を挟んで東に位置する小浜から出撃する部隊は二本松城に向かった。
二本松藩は軍師小川平助の指揮の元、防戦の支度を始めていた。二本松城は丘陵と阿武隈川という天然の地形を利用した山城で、高地に二本松の12小隊が展開し、後方には仙台藩3小隊、会津藩5小隊が後詰として待機していた。
だが、二本松藩には根本的に兵力が不足していた。そのため、老年隊、農民兵を含む予備兵に加えて少年からなる二本松少年隊までもが動員された。
大壇を始めとする城外の陣地をほぼ攻略され、二本松藩の指揮官らは二本松城に撤退して最後の抵抗に移ろうとしていた。
藩主丹羽長国を米沢藩に脱出させた際に仙台藩の護衛がついたが、それはそのまま同盟に対する人質となって二本松藩は降伏を選ぶことができなかった。
29日の正午、二本松にこもる重臣らは抵抗をついに断念する。城に自ら火を放つと、家老の丹羽一学以下7名は次々と自刃して城と運命をともにした。
この落城により、二本松藩は家老以下18名の上級職全てが戦死した。二本松藩の死者は218名に及び、その中には13歳から17歳までの少年兵16名も含まれている