二本松藩主丹羽家

○丹羽家の家紋


『違棒(ちがいぼう)』または『直違紋(すじちがいもん)』といい、大隣寺の寺紋にもなっている。
丹羽家墓所の歴代藩主の墓石、灯篭に刻まれており、本堂、経蔵、御霊屋にもこの御紋が使われている。


○丹羽長秀公

初代長秀公は、若くして織田信長氏に仕えていた。
元亀三年(1572)、近江国佐和山五万石の城主となり、始めて戦国大名となる。 
天正十年(1582)本能寺の変で出陣の時期を失い、以前の部下であった、豊臣秀吉氏に帰属した。翌年、賎ヶ岳・北の庄の合戦で、柴田勝家を攻め滅ぼし、加賀の国内の二郡を加増され、百二十三万石余の大大名となる。 

天正十三年には、長秀公逝去に伴い長重公が家督を継ぎ、所領は若狭の国と越前の国の十二万三千石に減じられた。
慶長五年(1600)、関が原の合戦で徳川家康氏より所領を没収され、以後流浪の身になった。

慶長八年(1603)、徳川家康が征夷大将軍に任じられ徳川幕府が成立すると常陸国古渡に一万石が与えられ、長重公は大名に復帰した。 元和七年(1622)、棚倉五万石の城主として国替えになった。

寛永四年(1627)、白川十万七百石の城主として国替えとなり、大隣寺を建立した。寛永六年〜九年に小峰城を築城。
寛永十四年(1637)、長重公は、江戸桜田上屋敷において逝去され、嫡子光重公が17歳で家督を継ぐ。

寛永二十年(1643)光重公は国替えにより、二本松十万七百石の城主として入部される。

正保三年(1646)、十ヵ年計画により霞ヶ城築城と、城下町の整備計画に着手し、慶安四年(5年後)に完成。
以来、明治戊辰まで225年間に渡る丹羽公の二本松藩政が展開された。




○丹羽家歴代城主
 





○丹羽家歴代御廟
*正面中央初代光重公・右七代長貴公・左五代貴寛公

*右より八代長祥公・四代秀延公・三代長之公・六代貴庸公

*九代様

二代長次公は、江戸で亡くなられ泉岳寺に葬られた。後、奥方様墓と一緒に青山墓地に移転している。
*内室陰墓・家族の墓